
HANASENNIN
Painter and Raku Tea Bowl Artist
HANASENNIN
Painter and Raku Tea Bowl Artist
花仙人の横顔
Memories of Hanasennin
家族や制作を支えた人々の記憶から、その人物像をたどります。
最後に音を上げたのは、
本人の膝でした。一
関東の駅に花を咲かせ、
最後は膝が音を上げた1954 — Dahlia
戦争が終わり、花仙人が藤沢で新しい生活を始めた頃、日本はまだ、誰もが生きていくだけで精一杯の時代でした。
東京の家も、それまで描いてきた油絵のほとんども戦災で失い、恩師・藤島武二もすでに亡くなっていました。画家として再び立ち上がろうにも、生活そのものが簡単ではありません。
結婚した花子と藤沢に住み、やがて二人の娘が生まれました。家の縁の下では、暮らしの足しにするために鶏を飼いました。庭のアカシアの葉を餌にすると、驚くほど立派な卵を産み、ほかの卵の倍ほどの値段で売れたそうです。
花子は花の先生をして、家計を助けました。厳しい暮らしのなかでも、家族はよく野へ出かけ、花を眺めました。
敗戦から十年も経っていない頃です。町を歩けば、人々はまだ食べること、生きることに追われていました。花を眺めて立ち止まる余裕など、なかなか持てなかった時代です。
そんな人々の姿を見て、花仙人は考えました。
自分に、花で何かできないだろうか。
幸い、藤沢の家には広い庭がありました。そこでダリヤを植え、球根を増やすことにします。
一年かけて育て、増えた球根のうち、翌年のために必要な分だけを庭に残す。残りは国鉄を利用して、関東一円の駅へ配りました。駅の空き地に植えてもらい、そこにダリヤの花を咲かせようと考えたのです。
大きな組織があったわけではありません。
誰かに頼まれた仕事でもありません。
庭で球根を増やし、関東各地の駅へ送り、また翌年も増やして配る。たった一人のボランティアによる「ダリヤ美化運動」でした。
やるとなったら、少しだけ試して終わるような人ではありません。
花仙人は同じ作業を何年も続けました。やがて、関東各地の駅の空き地にダリヤが咲くようになります。花を眺める余裕さえ失っていた人々の心を、駅に咲いた花が少しでも和らげてくれれば——。それが、この運動の目的でした。
活動は、当時世界的に読まれていた『リーダーズ・ダイジェスト』日本版にも取り上げられ、一ページの記事になりました。
後年、その記事を見せてもらった太田幸男さんは、誰にでもできることではない、無償の行いだったと振り返っています。
しかし、花仙人本人にとっても、この記事は特別なものだったようです。
掲載ページを切り抜くと、それを生涯、枕元にそっと置いていました。
人前で自分の活動を誇るのではなく、眠る場所のすぐそばに、大切にしまっておく。関東一円の駅に花を咲かせた人が、その証しである一枚の記事を枕元に置いて喜んでいたところに、花仙人の少し可愛らしい一面が見えます。
庭に咲いたダリヤは、絵にも描きました。
増やして、配って、駅に咲かせ、そして自分でも描く。花仙人にとってダリヤは、単なる美化運動の材料ではなく、戦後を生き直すなかで出会った大切な題材だったのでしょう。
ただし、何事も徹底的にやりすぎるのが花仙人です。
配るための球根は、一つひとつ分けなければなりません。花仙人は、しゃがんで立て膝になり、その膝を使いながら球根を割る作業を続けました。
一年だけではありません。何年も、増やしては割り、増やしては割る。
その結果、とうとうダリヤではなく、本人の膝が先に音を上げました。
膝を痛め、花仙人はダリヤ美化運動を終えることになります。
花で人々の心を明るくしようと始めた運動は、本人が動けなくなるほど続けた末に幕を閉じました。実に花仙人らしい終わり方です。
そして、その頃のことでした。
妻の花子が、こう提案します。
「陶芸をやってみたら?」
勧められたのは陶芸でした。そのなかから楽焼を選んだのは、花仙人自身です。楽焼をしている人の家を訪ね、のちに東京美術学校の同級生・吉田耕三から本格的な指導を受け、自宅の庭には薪窯まで築きました。
少し前までダリヤの球根を増やしていた庭に、今度は楽茶碗を焼く窯が立ったのです。
花を育てる仕事から、土を形づくる仕事へ。
関東の駅にダリヤを咲かせていた手は、今度は、一人の人が両手で包み込む茶碗を作り始めました。
花仙人は、立派な理念を言葉にしてから動く人ではなかったのかもしれません。目の前に元気を失った人々がいれば、まず庭で球根を増やす。始めたら、一人で関東一円まで配る。そして膝を痛めるまで続けてしまう。
その不器用なほどの行動力と、人を喜ばせたいという気持ちは、ダリヤ美化運動が終わっても消えませんでした。
花から茶碗へと姿を変えながら、その後の花仙人の仕事のなかにも、長く残り続けることになります。
最高の夕陽は、
白黒でした。二
一時間で海を描き、
何十年も夕陽を待ったEnoshima — Sunset
花仙人は、昔から水辺が好きでした。
学生時代には、学校からの帰り道、多摩川に浮かんで家へ帰ったこともあったといいます。美術学校の夏休みには、自転車で四国の引田まで出かけ、長く滞在して船遊びに夢中になりました。
江の島では、木切れを小刀で削り、小さなヨットまで手作りしています。帆を張って東浜から沖へ出すと、ヨットは波間に隠れ、そのまま見えなくなってしまいました。諦めかけた頃、センターバランスを失ったヨットが、ひょっこり手元へ戻ってきたそうです。それがよほど嬉しかったのか、家の長押に飾り、長く眺めていました。
戦後、藤沢に暮らし始めた花仙人は、江の島から伊豆半島へ沈む夕陽を見て、「日本一だ」と考えます。恩師・藤島武二が生涯にわたって数々の旭日を描いたのに対し、自分はこの夕陽を描き続けよう。それが、画家としての生涯のテーマになりました。
ただ、戦後の花仙人は、描こうとしても、描き上げることができませんでした。
それでも、毎日が夕陽との駆け引きです。
夕方になると藤沢の家から西の空を眺め、手をチョキの形にしてかざし、日没までの時間を逆算する。よい夕陽が出そうだと判断すれば、キャンバスと絵具箱を抱えて江ノ電へ飛び乗りました。キャンバスを買えないときは、板を持って出かけました。
江の島の岩場に着けば、相手は待ってくれません。燃えるような夕陽は刻々と姿を変え、色もたちまち移っていきます。花仙人は、夕陽に追い立てられるように筆を速めました。
何年も通ううちに、理想の夕陽が現れる条件も分かってきます。冬の晴れた日。雲があり、気温と湿度が低く、強い風が吹く夕方。画家というより、ほとんど夕陽専門の気象予報士です。
そして、ついにその日が来ました。
雲が浮かび、風の強い冬の日。花仙人が長年求めていた、これまでで最高の夕陽が現れたのです。手元のカメラにはカラーフィルムが入っているはずでした。シャッタースピードは60分の1秒、絞りは16と22。撮影条件はきっちり決め、夢中でシャッターを切り続けました。
ところが、現像された写真を見てびっくり。
フィルムは、白黒でした。
露出は完璧に決めていたのに、肝心のフィルムを間違えていたのです。
花仙人は白黒写真を大きく引き伸ばし、高さ約1.2メートル、幅約3メートルのキャンバスまで用意しました。しかし、どうしても筆を置くことができませんでした。
「あのフィルムがカラーだったら、すぐに描けたのに」
そう残念がりながら、もう一度、同じ夕陽が現れるのを待ち続けました。しかし、少なくとも太田幸男さんが出入りしていた間、求めていた夕陽が現れることはありませんでした。
だからといって、花仙人の筆が遅かったわけではありません。
ある知人から「のたりくたりとした、穏やかな海を描いてほしい」と注文されたときのことです。花仙人は長く悩み、「荒れた海なら楽なんだがなあ」とこぼしながら、何度も江の島へ通いました。
ある日の午後、突然、太田幸男さんに声をかけます。
「太田君、一時間で描くから見てなさい!」
江ノ電に飛び乗り、江の島の岩場へ向かうと、花仙人は絵具箱を開きました。
サッ、サッ、サー——。
宣言どおり、絵はちょうど一時間で完成しました。まだ生乾きの絵をそのまま抱え、帰りに注文主の家へ直行します。
「生乾きだから、気をつけて!」
絵を渡して代金を受け取ると、家へ戻り、妻の花子に「ハイよ」と手渡しました。その夜は、家で静かに宴会をしたそうです。
一時間で海を描き上げられる人が、生涯のテーマに定めた一枚には、ついに筆を置けませんでした。
足りなかったのは、技術でも速さでもありません。毎夕、西の空に手をかざし、時間を逆算し、絵具箱を抱えて江ノ電へ飛び乗る。その動作を、花仙人は何十年も繰り返しました。
描くための道具も、場所も、決意も、すべて揃っていた。揃っていなかったものが何だったのかは、本人にしか分からないままです。
妻が、ある日、
仕掛けました。三
妻にすすめられて始め、
轆轤を捨て、千碗をつくった1957 — Raku
1957年頃、花仙人は四十歳を迎えていました。
藤沢に家庭を築き、江の島から伊豆半島へ沈む夕陽を、生涯の絵のテーマに定めていました。
しかし、夕陽は毎日、画家の都合に合わせて現れてはくれません。
理想の夕陽を描けるのは、空気が乾き、雲と風の条件がそろう冬の夕方。それ以外の季節、花仙人は有り余る才能を持て余し、どこか荒れていたといいます。
その様子を見ていた妻の花子が、ある日、仕掛けました。
「陶芸をやってみたら?」
すると花仙人は、意外にも素直にその提案を受け入れました。そして、数ある焼き物のなかから楽焼を選びます。
東京美術学校で焼き物についての講義を聴いたことはありましたが、実際の楽焼については、まだ何も知りません。そこでまず、楽焼を行っている個人宅へ泊めてもらい、土を捏ねるところから焼き上げるまで、一通りの工程を見せてもらいました。
本格的な手ほどきを受けたのは、その後のことです。東京美術学校の同級生で、戦時中は同じ班にいた吉田耕三から、楽茶碗の作陶を学びました。
家へ戻ると、さっそく広い庭に窯を築きます。
煉瓦を二重に組み、雨に濡れないよう小屋を掛けた、本格的な薪窯です。ただし、一度に焼けるのは茶碗一碗だけ。世の中に売られていない部品は、自分で考えて作りました。
しばらく使うと、今度は花子一人でも窯を焚けるように改良します。茶碗を横から出し入れできる構造に変え、花仙人が作陶と施釉、花子が窯焚きを担う、二人三脚の制作体制ができあがりました。
楽茶碗を作るには、まず土が要ります。
本には青粘土が必要だと書かれていました。花仙人は遊行寺でそれらしい土を見つけ、次に天嶽院でも見つけました。しかし、寺の土を勝手に掘るわけにはいきません。
そこで花子と二人、近隣を歩き回って土を探しました。
藤沢から鎌倉へ入ったばかりの小さな峠で、花仙人は段々畑の崖を見上げ、真っ黒な土の層を一瞬で見抜きます。寺で見つけたものと同じ青粘土でした。
二人は奥の農家へ菓子折りを持って行き、採取させてもらえないかと頼みました。許可を得た土は、おそらくリヤカーで家まで運びました。
この鎌倉青粘土は粘りがよく、赤楽にも黒楽にも向いていました。花仙人が生涯使い続ける、主力の土になります。
長後では、小川から別の粘土を見つけました。素焼きすると、くすんだ白になり、釉薬を掛ければ白楽になる、ほかにはない土でした。
ところが、その場所には間もなく開発の手が入り、二度と採取できなくなりました。
何事も、あとで取りに行けばよいのではない。出会ったそのときが勝負——。花仙人の制作は、土との偶然の出会いから始まっていました。
ときには、日常で使っていた火鉢で茶碗を焼いたこともあります。なぜか「御幸」と記された火鉢でした。
火鉢の中央に茶碗が入る穴を開け、茶碗を突っ込み、その中にも赤くなった炭を入れる。最後に炭を盛り上げると、
「おやすみなさい」
そのまま一晩置いておけば、翌日には茶碗が焼き上がっていました。窯で焼いたものと、ほとんど変わらなかったそうです。
江の島の岩場を歩いていたときには、岩ばかりの場所に、ほんの少しだけ土が落ちているのを見つけました。見上げると、崖の上に一本の木があります。
「あそこから落ちてきたんだろう」
少しだけ持ち帰り、一碗捻って焼いてみると、柿の実のような朱色になりました。
土は、焼いてみなければ分からない。その一碗を確かめるためなら、花仙人は身近なものを何でも窯へ入れました。
楽を始めた頃は、本に書かれた道具を一通りそろえ、轆轤も用意しました。一般的な作り方、紐作り、板作り、楽家の技法も試しました。
しかし、光悦のような茶碗にはならない。
そこで花仙人は、習った方法をそのまま繰り返すことをやめます。
轆轤を部屋の隅へ追いやり、代わりに使ったのは、一枚の板、布切れ、鉢巻、そして自分で作ったドーナツ状の支えでした。
従来の楽茶碗は、板の上で大きく厚く形を作り、生乾きになってから削り出します。花仙人が考えたのは、その真逆でした。
よく練って空気を抜いた粘土の塊を板の上で押しつぶし、円盤状にする。それを左手に乗せ、左手そのものを轆轤の代わりにします。
しかも茶碗は、天地逆さまです。
右手の親指を茶碗の内側へ入れ、ほかの指で外側を締めながら、内側から少しずつ広げていく。途中でドーナツ状の支えを入れ、形が崩れないようにしながら、物理の原理を使って茶碗を立ち上げました。
形ができると、左手に乗せて目の高さまで持ち上げ、ぐるりと回して眺めます。気になるところは右手でポンポンと叩いて直しました。
高台の大きさを決める基準は、定規ではありません。
その人の「チョキ」の幅です。
手の大きさが違えば、高台も変わる。そして、その日の気分や心の状態まで、知らないうちに茶碗へ現れるのだと話していました。
だから花仙人は、こんなことも言いました。
「酒を一杯飲んでから捻ると、気がほぐれていいんだよ」
作陶の最後には、茶碗の飲み口に鉢巻をしました。これを忘れると、翌日には百パーセント割れてしまいます。茶碗にとっても、鉢巻は気合いを入れるための大切な仕上げでした。
漢字を書くことはあっても、茶碗に絵を描くことは「もってのほか」。
本業は画家でしたが、自分の茶碗を絵で飾ろうとはしませんでした。その一方で、作陶の息抜きには蟹を作ったり、鯨の形をしたパイプを作って自分で使ったりしました。
「何でも焼き直しが効くんだよ!」
真剣な茶碗づくりの合間に、そんなものまで焼いていたのです。
削りの道具も、特別に注文したものではありません。
ある日の散歩中、屑鉄屋の前を通りかかると、鉄の入れ物に一本の鉄片が突き刺さっていました。百円ほどで買って家へ持ち帰り、使ってみると、驚くほどよく切れ、よく削れます。
調べてみれば、それは本物の小柄でした。
花仙人は「これがいいんだよ」と気に入り、茶碗の削りにも、署名や文字を書くときにも、生涯その小柄を使い続けました。
茶碗の内側を削る道具は、スプーンです。
右手で何度も茶碗をつまみ、厚さを確かめる。茶を飲む真似をして重さを測り、船の復元力を確かめるように茶碗を揺らす。そしてもう一度、飲む真似をして重心を決めました。
一気に削れば、茶碗は壊れます。
削って、乾かし、また削る。それを三日ほど繰り返しました。ただし、すべてを均一に削り取ることはしません。
「ここは自然だ」
そう感じた一点だけは、あえて削らずに残しました。それが茶碗の景色になります。
花仙人の茶碗は、大きくても薄く、軽く仕上げられました。
「重い茶碗は肩が凝る」
知人から薄すぎると批評されても、直しませんでした。本人が実際に持ち、飲む真似をし、身体で決めた重さだったからです。
三十から四十碗がたまると、まとめて素焼きをしました。本焼きに最もよいのは、正月明けの乾燥した寒い日。次によいのは、空気がからりとする五月の連休頃でした。
窯焚きの日、花子は早朝から火を入れます。
一度始めれば、一時も窯から離れられません。おにぎりを用意し、薪を絶やさず、急ぎすぎず、ゆっくりと温度を上げ続けました。
花仙人は午前中、焼く茶碗すべてに釉薬を掛けます。釉薬そのものは名古屋の伊勢久本店から取り寄せましたが、配合と分量は企業秘密。濃い釉薬を一度に掛けることはせず、薄いものを何度も重ね、天日に干しました。
窯が安定すると、一碗ずつ本焼きが始まります。
のぞき穴から釉薬の溶け具合を見極め、十数分で茶碗を引き出す。水へ入れて急冷することもあれば、煉瓦の上でゆっくり冷ますこともありました。
一碗を取り出すたびに火を弱め、焚き口を煉瓦で塞ぎ、熱を逃がさないようにする。そしてまた次の一碗を焼く。
花仙人が捻り、削り、釉薬を掛け、花子が一日中、窯の火を守る。
こうして二人は、四十歳から六十歳までの二十年間に、千点に及ぶ楽茶碗を作りました。
晩年には、それまで培った薄く削る技術を生かし、「エンタープライズ」と名づけた超大型の茶碗のシリーズまで生み出します。
妻に勧められて始めた楽茶碗づくりは、やがて轆轤を捨て、従来とは真逆の方法を生み出すところまで進みました。
けれど、その制作を支えていたのは、決して特別な道具ばかりではありません。
一杯の酒。百円で買った小柄。台所のスプーン。チョキの幅。飲む真似。そして、朝からおにぎりを持って窯の前に座る花子。
花仙人の茶碗は、一人の芸術家の頭の中だけから生まれたものではありませんでした。
土を探して二人で歩き、見つけた土を運び、夫が一碗を捻り、妻が一碗を焼く。
偶然にしか現れない侘び寂びを待ちながら、二人は同じ庭で、愚直に火を守り続けました。
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